コラム「教育実践」

コラム「教育実践」
2017/10/25new

コラム「教育実践」vol.3「実践」と「理論」の回路

Tweet ThisSend to Facebook | by 事務局(天野)

「実践」と「理論」の回路


教育実践研究科 准教授 大隅 心平


小学校勤務の経験をもつ「実務家教員」としての立場から、前回のタイトルに関連して、自分の実践をふり返る「場所と言葉」について考えてみます。教育実践研究科では「学校経営・学級経営特論」を担当します。昨年まで日本教育大学院大学では「現代社会における子ども論」や「学級経営と特別活動論」などを担当してきましたが、その土台となっていたのは、実践を言葉にすることを試み、言葉による相対化を介して実践を見直す、そのようなプロセスを通しての「実践知」でした。文献を参照して視界が開かれる経験も少なくありませんでしたが、「言葉」との往還を通して「実践」を構築することを基本としてきました。

学校では、職務に関する様々な研修の機会が用意されています。職務上の必要に応じて、或いは希望して研修に参加し、実践的な課題について学ぶ機会を得ることができ、レポートの作成などにより実践をふり返ることができます。それが「実践」と「言葉」を媒介する契機でもあります。私もそうでしたが、とくに、研修の主たるフィールドである勤務校における研究活動は、自校の実態に基づく課題をテーマとして、日常の教育実践を基盤とする研究主題の設定、研究仮説やその検証など手応えのあるものでした。教職員の問題意識やアイディアを生かした取り組み方の工夫で、研修の効果を高めることを目指しました。その一方で、研究の課題や成果を共有する難しさも感じました。職務の一環でもある研究活動は、教職経験は勿論、問題意識も、研究活動に対する参画も様々です。そのような多様さをつなぐ「言葉」や「場」の問題といってよいでしょうか。実践上の課題について取り組んでいる研究なのに、共有するはずの「言葉」が実践に届きにくく、研究のテーマを継続し、蓄積する上でもハードルになってしまいがちです。研修が、個々の教員にとって「実践」と「言葉」の媒介になっているのに、組織的な研究活動の場ではそれが難しかったのが経験的な実感です。

例えば、「手品師」を教材とする道徳の授業の改善について検討するような場合。男の子との約束と友人からの大劇場出演の依頼が重なって悩む手品師の心情を取り上げ、その葛藤にどのようにアプローチするか、学級のAさんやB君の反応を想定しながら、主題とする道徳的な価値にアプローチする展開について話し合います。所属学年、教材観、指導観はそれぞれでも、自校の子どもたちを対象とする話し合いを通して、お互いに共通する課題がみえてきます。「多面的・多角的に考える」、「登場人物に自分を投影して、その判断や心情を考える」など、授業展開の課題をまとめます。しかし、そのまとめを次の授業の組み立てに活かすことが難しいところでした。各自の発言や問題意識を、いわば「学習指導要領の言葉」によって通分してしまうことによるのかもしれません。教師であるAさんやBさんの言葉には、それぞれの学習指導のイメージがあり、それが実践の具体を支えてもいます。「通分」は共通の基盤を形づくる上での必要なまとめですが、そこには「話言葉」を「書き言葉」にするときに生じる問題、或いは、実践研究における「場」や「言葉」の問題が介在します。前回のコラムに書かれているような、「経験や実践知を学習教材」とする学びの場が必要なのでしょう。

下司晶氏は、「教育哲学」と「教育実践」の「新たな関係性」を視野に、『学校教育の授業や生徒指導の実践に関しても、それが言語によって語られ、近代教育の理論が入り込んでいる以上、理論とは無縁な「実践それ自体」を想定することはできない』(※p214)といいます。意識するかどうかは別にして、「実践」を語る「言葉」には、それが「当事者」としての具体を対象にしていても、先行する何かしらの「理論」が投影しているということでしょう。「学校現場」と「教育理論」という二分法ではなく、そこを架橋する「理論−実践の媒介者」(※p213)、或いは「理論ー実践」を媒介する「場」が求められます。下司氏は「教員が・・・自らの力で学び、教育学者に仮託することなく自らの見解や実践例を発表していくこと」に言及し、そのために「教員にアカデミックな回路を組み込む必要が生じる」(※p275)といいます。「アカデミックな回路」とはどのようなものなのか、その検討は必要でしょうが、教師自身がそのような回路を自ら「組み込む」努力を通じて、「理論」と「実践」の架橋にアプローチすることは、これからの教育に欠かせない課題だと思います。「教育実践」を対象とする大学院の学びの意義がそこにあるのではないでしょうか。教職員の学びを支える組織運営がこれからの学校経営の課題でもあります。

 ※下司晶『教育思想のポストモダン−戦後教育学を超えて−』勁草書房
12:33 | コラム「教育実践」
2017/09/25

コラム「教育実践」vol.2「自分の実践をふり返る場所と時間」

Tweet ThisSend to Facebook | by 事務局(天野)

自分の実践をふり返る場所と時間
        ―大学院での学びの勧め―

教育実践研究科教授 三輪 建二

 

  星槎大学大学院教育実践研究科では、「専門職者としての職能開発」と「生涯学習特論」という授業を持っています。また、学生一人ひとりが探究する課題について、学生と教員でじっくり考え合う「プロジェクト研究」に、教員の一人としてかかわっています。
 私の専門は生涯学習論、成人教育学で、とくに専門職の「省察」「ふり返り」に関心をもっていますので、天職としての生きがいを感じながら授業に取り組んでいます。私の翻訳作業のなかには、D・ショーン『省察的実践とは何か』(鳳書房、2007年)もあります。私の教育観・授業観のようなものを織り込みながら、教育実践研究科について紹介してみましょう。
 
 大学院という言葉には、現場の課題を「学問的」「理論的」「科学的」に考察するというイメージがあります。もちろんそれで間違いではないのですが、私はそこに、「実践知」を「ふり返る(省察する)」ということをぜひ組み入れたいと考えています。
 実践知とは、教師として、あるいは看護師や事務職などの対人援助専門職として、生徒・学生、保護者、志願者や患者に向き合い、その都度臨機応変に対応するときに、知らず知らずのうちに用いている知識のことで、経験知とも暗黙知とも言われています。
 教師も看護師も事務職員も、「実践知のプロである」ということができます。仕事上のクレームや多忙感のなかで、あるいは自己肯定感が低くなっていることがあるかもしれませんが、「自分は実践知のプロである」ということだけは、大いに自信を持ってほしいと思います。
 
 大学院での学びでは、実践知は敬遠されるものではけっしてなく、むしろ実践知を出発点とすることが大事になります。私の授業ではそのためか、「私の教員経験では……」「私が患者と向き合った経験では……」「入学志願者に面談したときは……」といった発言が飛び交います。経験と実践知をしてのそれぞれの違いだけでなく、共通点を確認しあうのです。そこでは、教師と学生という関係は見えなくなり、学生同士が教師になり、同時に学び手になるという瞬間が生まれます。
 
 そのような話し合いが、私が司会進行をしないまま、何十分か続くこともあります。経験や実践知を学習教材とすることから出発し、そこから、実践知の「ふり返り(省察)」が開始されます。「あのような経験の意味はいったい何だったのだろうか」「自分が授業中のA君の発言を受けてとっさに対応したあの行為は、自分にとってどのような意味があったのだろうか……」「教科書にあった『教員研修』をめぐる見解は、自分の経験した研修にもそのまま当てはめられるだろうか、あてはまらないとしたら、どこが違うのだろうか……。大学院の授業は経験や実践知に接続していますが、同時に自分の職場とは時間的にも空間的にも距離があります。また違う職場や職種の学生たちばかりです。自分の経験や実践知のふり返り(省察)を通して、経験や実践知の相対化をはかるという作業がおこなわれるのです。経験や実践知の相対化の作業には、授業中のやりとりに加えて、授業後の宿題として「ふり返りシート」を記載し、それらのシートをお互いに読み合うこと(シートはグーグルドライブで情報共有しています)もあります。さらには、テキストの確認を通して、学問や学術的な概念による裏付け作業も含まれます。 自分の経験や実践知を思いっきり語りながら、そこにふり返り(省察)が入ることで、経験や実践知が言葉になり、ほかの参加者にも理解できるものとなり、学問的な概念に裏付けられたものにもなっていく。「省察の言語化」を展開することは、とても有意義な、現職者の学び、学び合いではないかと思っています。
 何か思いっきり語りたい人の参加を希望しますし、入試広報の委員もしていますので、入学のご相談にも応じたいと考えています。


10:00 | コラム「教育実践」
2017/08/25

コラム「教育実践」vol.1「教育現場の先生方は単なる実務家ですか」

Tweet ThisSend to Facebook | by 事務局(天野)

教育現場の先生方は単なる実務家ですか

教育実践研究科 教授・研究科長 大野精一

 

 幼稚園や小学校、中学校、高等学校、そして専門学校等で教職についている先生方(教育実践家)は単なる実務家なのでしょうか。先生方は、キャリア展望としてベテランの実務家(エキスパート)を目指せばいいのでしょうか。

ここでは私が担当している授業科目「専門職者としての倫理規範」の内容を踏まえて考えたいと思います。この授業では教育学者の佐藤学氏や「省察的実践」の考察で知られるドナルド・A. ショーン氏等、たくさんの文献を参照しながら、受講生のみなさんと議論しています。関連する文献の提示は省かせてもらいますが、その一端をご紹介します。

 

先生方の周囲には授業や生徒(学生)指導のベテランがいて、すごいとお思いのことでしょう。こうしたベテランの先生と同じように、わかりやすい授業や説得力のある指導を目指して日々努力を重ねることになりますが、その際にベテランの先生にそのコツを訊いても必ずしもこちらの満足のいく答えが返ってくるとは限りません。どうしてでしょうか。

 

その答えが多くの場合、今こうして「実務」としてうまく行っている授業等の留意点や配慮事項に関わることだからだと思います。そこで示されることは気づきにくい観点やスキルがあるにしても、それほど今の自分の実践から理解し難いことでもなければ、はるか彼方にある究極の目標でもないはずです。いつかはこの自分の手に届くものです。

 

恐らくこのイメージは、ベテラン職人から教えを受けるもので、最良の意味での「徒弟」関係(師匠-弟子)ではないでしょうか。こうしたプロセスで授業や生徒(学生)指導の「技(ワザ)を磨く」わけです。本研究科(専門職学位課程)に「実務家教員」というカテゴリーでベテランの教師経験者がいるのはこうした意味合いもあります。

 

ただ難しいのは、実務家としてのベテラン教員がご自身の活動を他者に伝達可能な形で表現し得るかと言うことです。結果としてすばらしい実践が生起していることはわかっても、何が起きているのか、何故起きているのかは、日々に多忙でせわしない毎日を送るベテラン実務家ご本人ですら正確に把握し得ていないかも知れません。そもそもそこに暗黙知等も含むとすれば、ご本人が表現する以上のものが生起してしまっているのですから、これは当然のことと思います。

 

われわれはここで問題を変換する必要があります。現に生じているすばらしい授業や生徒(学生)指導を「再現」しようとするのではなく、ベテランの先生が現実に推移する個々の授業や生徒(学生)指導をしながら、よりよいものにすべくどんな風に現実を捉え、その結果としてどんな方略がいいのか等を考え実践しているのかを知ることです。新人の先生が考えもしない観点や配慮、その時の状況定義が出てくるでしょう。ベテランの実務家の具体的な生きた実践から学ぶとは、こうしたことではないでしょうか。

 

本学の授業で焦点化している学び合いがここにあります。これは単なる「(自然)科学的」な研究者とは異なった専門家像に立脚するに違いありません。むしろ教育実践の専門性はこうした視角からハッキリするものであると考えています。

 

ご一緒に教育実践のあり方を学びませんか?

ゼミ風景
15:44 | コラム「教育実践」